生態心理学者ギブソンの提唱した本来の意味でのアフォーダンスという捉え方、「動物と環境の間に存在する行為についての関係性そのもの」
この世は「環境」が先行し、そこに「うごめく」生態が現れた。
生態としての我々が、人としての形を成してこの現代にいたるまで、更新され続ける環境に適応し続けてきたということになる。
五感をはじめとする、知覚のすべてを環境にあてがい、そこからの情報が絶えることなく統合され、「生態」がその存在の意味を成す。
人の身体機能、運動のすべては、そこに包含されている。。。。「歩く、走る」もだ。
アフォーダンスの入門書で、モグラの生態をもとにかかれた文章に心を惹かれた。
モグラは、地面に分け入る時、重力を感知する感覚機能によって「下」を感知し、地中の硬いところや石ころなどの異物をそのセンサー機能を持って感知し「やわらかさのつらなり」を発見し続ける、そしてその結果地中には複雑な道(トンネル)が環境として現れる。
・・・という内容が書き記されている。
しかしだ、表現しているのは人間である、筆者は配慮に配慮を重ねて客観的な視点で丁寧に書き記しているのだが、人間の思考や意識は図らずも強引に「こちらからの診たて」で事を現してしまうのだ。
モグラは、「やわらかさのつらなり」を選択し続けると同時進行に「かたさのつらなり」も発見し続けている・・いや、発見という言葉には意識が乗ってしまう。
モグラは、時間の経過とともにただただ更新され続ける「環境」そのものであることとして、そこにあり続けるだけなのだ。
人が作る概念、それはたいへんおこがましい。
色の三原色もそう。
人の目が感知できる光の情報は鳥や昆虫よりも劣るところは有名な話。
鳥や昆虫はわれわれが可視できない光を感知する。
そんな、お粗末な色彩情報しか取り入れることができない人間が、「この世の色は三色からなる」という。
実は、私が苦慮していたことは、この一方的な「こちらからの診たて」に抗おうとしていたこと。
人の思考や意識が作り出す「おこがましさ」に気づかず無差別に脳の報酬系をまわし続けて、悦に入り、その挙句に伝える側の犠牲者を作りつづけることへの恐怖だ。
身の回りには因果を踏まえないが「常識」としてそこにある、なんともやりきれない事象だらけ。
自らもその素養を持っているからこそ、必死にそこに陥らないために何をすべきかに、気をもみ続けた。
しかし、どうやっても、私の意識が、思考が、私自身を動かしているという概念から脱却できないのだ。
アフォーダンスの入門書の著者は、それでも淡々と、自分の意思や思考を軸にギブソンや、ダーウィンの想いを汲み取っていく。
ああ、これでよいのだ。
ここに書かれていることを、知ってさえいれば良いのだと思うようになった。
なぜなら、楽になったからだ。
人間からの視点、人間からの感性のベクトルを卑下することなく、そのすべてが更新され続ける「環境」そのものであることを人間の思考と意識もって受け入れ続けることにした。
今のところは、それで過ごす。
そうすれば、いろんなことがもっともっとクリアに見えてきた、取捨選択の区割りが明確になった。
今まで以上に、「そうする」のではなく、「そうなる」ためのアプローチにアイディアを駆使することができるようになってきたと思う。
人の身体、運動について、伝えるものとして、アフォーダンスの考え方は、たぶん傍にあったほうが良いと思う。
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